志魂記
尖閣諸島 (魚釣島) 上陸レポート
尖閣上陸は本物の勇気か?腐った虚栄心か?魂との闘い! 理論は行動をともなわなければならない(陽明学)
目的
- ・戦時犠牲者の慰霊
- ・日本固有の領土、主権の主張
- ・日本人、とりわけ若者への警鐘
不朽心
- 鹿児島出発前
- 身はたとへ 尖閣野辺に朽ちぬとも 留め置まし大和魂
(原文:武蔵の野辺)
- 機中にて
- 帰らじと思い定めし旅ならばひとしほぬるる 桜島かな
(原文:涙松)
- 警察、海保から警告を受け
- かくすればかくなるものと知りながら巴むに巴まれぬ大和魂
- 死を覚悟したとき
- 人には時に権力者の顔色よりも 法律よりも そして自分の命よりも もっと大切にしなければならないものがある。
それは国家の尊厳を身をもって守ることだ。
自分の死を“すべての終わり”ではなく“すべての始まり”にする。
志士の本櫂とは「身を殺して仁を成すことにあり」
タイムスタンプ
9月17日(月)
- 10:00
- 鹿児島空港 → 那覇空港 (11:20着)
- 12:40
- 那覇空港 → 石垣空港 (13:40着)
- 12:40
- ホテルチェックイン
- 16:45
- 石垣海上保安本部(注意事項・警告)
- 19:00
- ホテルにて同行者2名合流、打合せ
- 22:00
- ホテルロビーにて八重山警察署員より注意・警告を受ける
- 23:20
- コンビニ(食料品調達)経由 出航ターミナルへ
9月18日(火)
- 0:00
-
出航前検査(臨検)を受ける 海保係員5名、警察2名
出港停止要請(台風余波による高波・違反上陸の可能性・日中関係の現状・中国武装漁船との不測の事態発生)を受けるも「上陸は絶対しない」という条件付きで、出航許可を受ける。1km後方から巡視船1隻が警戒監視のため追尾
―船長より警告(船中にて)―
上陸すると今後の業務に影響が出るので絶対にしてはならない。この荒波での上陸決行は自殺行為だ。尖閣海域は豊富な漁場であるため サメが多く、過去に相当数もの不明者が出ているのは殆どがサメの餌食になっているのが原因。 - 9:15
- 魚釣島沖到着後 洋上慰霊、菊の花(国花)を捧げる。
その後私と同行者1名が船から飛び込み、100m約10~15分かけて上陸に成功(中国監視船12隻が接続海域に到達展開)
荒波のためなかなか着岸できず波にのまれ3度 死を覚悟する。
上陸後、海上では巡視船2艘、上空ではメディアヘリ1機、哨戒機1機が展開。
―携行品について―
私は国旗3枚と菊50本の入った発泡スチロール、同行者1名は慰霊碑前と国旗掲揚台前を清掃するためのホウキ1本。 - 9:45
- 上陸後すぐに巡視船から「直ちに戻るように」との警告を受けるも粛々と慰霊碑前の清掃、国旗掲揚、慰霊を続行。
海上保安庁の救助艇(ゴムボート・5名乗り)が魚釣島に近づくも荒波のため接岸できず30m沖で待機。 - 11:00
- 同行者1名が説得に応じ泳いでゴムボートへ。私は20分後 両足の傷口の血が固まるのを確認した後に離岸する (サメは1滴の血液でも1000m先から感知する能力があるとのこと)ゴムボートまで泳ぎ漁船に戻った後船上にて10分間海保係官の事情聴取を受ける。
- 11:45
- 現場海域を離れ一路石垣空港へ。
- 18:30
- 港にて約十数社のマスコミより取材を受けた後ホテルへ戻り出頭準備
- 20:30
- 要請を受け八重山警察署へ3名で出頭、事情聴取
- 22:00
- 八重山警察署 玄関にてマスコミ取材(5分)
9月19日(水)
- 9:20
- 八重山警察署出頭、事情聴取(~11:45)
昼食(船長親子同席) - 13:00
- 八重山警察署出頭、事情聴取(~15:00)
玄関出口にてマスコミ取材(5分) - 16:10
- 石垣空港→那覇空港(17:05着)
石垣空港ロビーにてTV取材 - 17:45
- 那覇空港→鹿児島空港(19:00着)
到着後 在鹿児島TV局取材
12月6日(木)
- 10:00
- 鹿児島地検本庁出頭
12月17日(月)
- 20:30
- マスコミ報道により「不起訴」を知る
マスコミ各社の取材Q&A
於 帰港後ターミナルにて
- 目的について
- 慰霊、領土主権の主張、日本人への警鐘
- 上陸した時の気持ち
- 還暦を迎え戦時犠牲者の慰霊を尖閣の地で実行でき、やっと日本人の仲間入りができた
- 警告を無視して上陸したことについて
- 最初から上陸を決めていたので確信犯であり、あえて法の裁きを受けることは覚悟の上だった
- 石垣港に戻って来た際の気持ち
- 私の個人的目的は達成できたがこの行動が、日本国民が目を覚ます起爆剤になってほしい
- 日中関係の現況への配慮は
- 国家間の問題は政府間交渉でやるべきであり、私のような一国民の行動が国家間の問題になるとは思っていない。
- 今日(9月18日)は満州事変の発端となった柳条湖事件の起きた日で中国では抗日運動のシンボル的な日ですが、あえてこの日を選んだ理由は?
- 柳条湖事件発生の日であることは知っていたが、私にとって大切なことは毎月18日が昭和19年7月18日の疎開船撃沈犠牲者の月命日であったことが最大の理 由。私自身も奄美出身者であり、疎開船には沖縄在住の奄美出身者も多く、中には子供も含まれていたと聞きましたので違法覚悟での上陸慰霊でした
於 八重山警察玄関出口にて 事情聴取終了後
- 中国は「愛国無罪」、日本は「愛国有罪」について
- 日本は法治国家であることが確認できたので逆に嬉しい。中国は偏った愛国教育(反日教育)により暴動に発展し、日系企業の店舗破壊や放火、略奪、日本
製品の不買運動、在中国日本人への嫌がらせ、日本国旗への冒涜 等、悪の限りを尽くしましたが殆どが事件として扱われず「愛国無罪」になりました。
しかし、私の上陸に関しては「我が国の今日は先人たちの犠牲の上に成り立っている」との愛国心からの行動でしたがきちんと裁きを受けることは日本がまさに法律が平等に適用される素晴らしい法治国家であることが証明され、逆に日本人としての誇りを感じます。
ただ、政府の外交交渉の稚拙さにはあきれるばかりなので、我々日本国民一人一人が日本人として国家意識を持つことの大切さを感じてもらいたい。
日本人よ目を覚ませ!!
「謙虚は美徳」と習ったが、「諦めも美徳」なのか
失われた日本人の心の基盤
政治の腐敗と無気力、社会的責任と義務を忘れた官僚、度を越した拝金主義、教育の荒廃とモラルの低下。その結果としての経済の混乱、治安の悪化、ニートや引きこもりの増殖、自殺者年間3万人越え、いったいいつから日本はこんなに情けない国になってしまったのでしょうか。16世紀日本を訪れた宣教師ザビエルは「他のどんな民族よりも礼儀正しく勤勉」と評価し、大正末期、日本各地で講演をしたアインシュタイン博士は「神が日本という尊い国を創っておいてくれたことに感謝する」とまで言いました。こうした讃辞の背景には古代以来、異民族の侵入侵略や干渉を排除し、統一国家としての歴史と文化を守り続けた先人たちの知恵と勇気と努力、そして何よりも世界に負けまいとする気概があったからこそと思います。
これを「日本精神」と呼ぶならば「日本精神」の復興こそが、いまの日本に求められているのではないでしょうか
日本人の心の基盤は「死者の目を意識して生きる」ことであり元来は「先祖を大切にしてきた誇り高き民族である。しかし、歴史を直視しない戦後教育により、正しい心の基盤が崩れていく一方である。その象徴が国を守るために亡くなった戦没者の英霊さえ粗末にして恥じない昨今の政治や社会、老若男女問わず今の日本には国のために命を捧げた人々の魂に対して何の敬意も捧げない、ましてや私たちの国を守るため若くして散った兵隊さんを非難するバカな人間もいるのは、心の中が日本人ではなくなっているのではないでしょうか。現代は先人たちの犠牲の上に成り立っていることをしっかりと心に刻むべきです。
自虐史観からの脱却を目指せ
戦争は犯罪であり悪である。しかし第二次世界大戦は本当に日本の戦略
戦争だったのか?答えは「NO」だ!
―タイのククリット・プラモード元首相の言葉―
日本のおかげでアジア諸国はすべて独立できました。
日本というお母さんは難産のため母体を損ないましたが、生まれた子供たちは元気にすくすく育っています。今日東南アジア諸国が米英と対等に話ができるのは一体誰のおかげでしょうか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったからです。
12月8日(真珠湾攻撃)は私たちの“お母さん”が一身を賭して重大決心をされた日なのです。だから私たちは決してこの日を忘れてはならない。そして8月15日(終戦)は私たちの“お母さん”が病の床に伏した日でもあり、この2つの日を絶対に忘れてはならない。
日本人の心に潜む本当の敵は
イデオロギーなき時代の羅針盤
―社会的不安要素―
- ・ 12年連続自殺者三万人越え
- ・ うつ病患者100万人越え
- ・ 経済不況の中、2011年3月11日の大震災と原発危機
- ・ 財政赤字、消費低迷、若者の就職率低下
- ・ 貧困と格差
どれをとっても幕末の志士「吉田松陰」が主導した尊皇攘夷のようなスローガンは現代の我々にはない。「打倒○○」と叫んでも我々には明確な「敵」はいない。共産主義?日教組?資本家?官僚?東電?北朝鮮?ロシア?・・・
どれも我々を一つに団結させる「敵」ではない。むしろ「敵」は日本人としての心の基盤が崩れ、誇りと自信を失いグローバル資本主義の中で翻弄され、斜陽に向かう我々自身の中にあることに気付くべきだ
尊皇攘夷運動とは
日本が欧米諸国の植民地にされてしまいそうだ、という危機的な時代にあって、その頃の人々に内政上と外政上のいわば“唯一の活路”を示した運動。
内政上の活路が「尊皇」で外交上の活路が「攘夷」であり、欧米列強と対等なかたちでの開国を目指した運動である。
―尖閣問題の推移―(抜粋)
- 明治18年
- 政府が現地調査:無人島、清国の支配がないことを確認
- 明治28年
- 領有を閣議決定:清国から異議申し立てなし
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- 戦前
- 鰹節工場があり約200人が居住
- 昭和26年
- サンフランシスコ講和条約でも日本が放棄した領土に含まれていない。(沖縄返還で施政権が復帰・中国も異議を唱えず)中国共産党の機関紙「人民日報」の昭和28年1月28日付の記事には「琉球群島には尖閣諸島、沖縄列島、大隅諸島などが含まれる」と明記
- 昭和33年
- 中国の「世界地図集」には尖閣諸島は日本の領土とある
- 昭和43年
- 国連アジア極東経済委員会の海底資源調査結果(石油・天然ガス埋蔵)を受けて中国の主張が始まる
- 昭和46年
- 突如として中国が尖閣諸島の領有権主張を始める
- 昭和50年
- 中国の「武装漁船」集団が一時魚釣島を占拠、その後退去
以後日本が実行支配
―中国の海洋戦略―
- 昭和43年
- 国連アジア極東経済委員会の海底資源調査結果(石油・天然ガス埋蔵)を受けて中国の主張が始まる
- 昭和46年
- 突如として中国が尖閣諸島の領有権主張を始める
- 昭和50年
- 中国の「武装漁船」集団が一時魚釣島を占拠、その後退去
以後日本が実行支配
―中国の海洋侵攻のシナリオ―
- 昭和49年
- 西沙諸島ヨンローを占拠
ベトナム・フィリピン・マレーシア等は血であがなう抵抗をする - 平成9年以降
- アセアン首脳会議に出席
- 平成12年
- ベトナムと領海制定に関する署名
- 平成14年
- アセアン首脳と複雑化する行動の自制
「南シナ海行動宣言」に署名 - 平成15年
- 東南アジア友好協力条約に加盟
その後、抵抗の強い南シナ海から日米同盟のブレと現行憲法に縛られ、手も足も出せないくみし易しの東シナ海を伺う。
後日とある会員の方から、この上陸活動を受けて、歌をいただきました。
尖閣防衛の意気込み。